| 永井路子による基調講演「歴史の架け橋 海街道」(平成7年10月25日) |
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| <講演の抜粋> |
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| 京の都を下った昔の東海道は、大磯あたりから海沿いに藤沢、鎌倉に入り、切り通しを抜けて逗子、久里浜、そして海を渡って房総へ行くルートがメインで、つまり"東の海の道"であった。 |
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| この東海道は経済はもちろん、政治的にも重要で、古くから情報交換や人的交流が行われていた。その一例が1180年の源頼朝が旗揚げした際の背景。 |
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| 当時の東国の豪族たちは、朝廷や公家たちに年貢を納め、搾取されるばかりで生き甲斐がなかった。我々も権利を主張しようと、伊豆半島にいた頼朝を担いで、真鶴半島の土肥実平、三浦半島の三浦一族や房総半島の千葉氏ほか、海側の有力者たちが立ち上がった。彼らの連絡の手段は、船と海辺の街道。関東から突き出た大小の半島が、頼朝旗揚げの主舞台だった。 |
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| ところがこの決起は、猛烈な嵐に遭遇した三浦勢がやむなく海のルートをあきらめ、陸伝いに藤沢まで進んだものの、平家方についた豪族に妨げられ、頼朝はベタ負けして、小田原の石橋山に逃げ込む。それを土肥実平がこっそり連れ出し安房へ送る。やがて千葉氏や周辺の豪族を結集して再起した頼朝は、一大勢力を整えて武蔵から相模に攻め入り、鎌倉に本拠をおくこととなった。 |
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| 三方を山に囲まれ、前が海の鎌倉は防衛上の好立地であり、同時に、頼朝の父と縁が深く有力な豪族である三浦氏がすぐ近くに控えている。三浦氏は東京湾をまたいで房総の千葉氏と婚姻関係にあり、昔は水深が深かった海を利用し、中国(宋)との経済交流も行っていた。 |
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| また、頼朝の側近であった北条氏は、力をつけだすと三浦氏とは別の海の道を東京湾口寄りに求めて鎌倉の朝比奈峠に道を拓き、六浦に出た。これらの歴史を見ても分かるように、「東京湾の海の道は、関東の政治・経済情報の収集・伝達の道でもあった」のである。
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